学会ネタ 見たくない人はスルーしてね

2018年12月20日12:00  日記

読みたくない人は読まないでくださいね。


会合にて体験発表をさせていただいたもの。
3分以内にまとめてありますから、簡潔に功徳体験をかいています。
私が発信していけば、また何かおもしろくなるかなーと思いまして笑  全て楽しいか楽しくないかで過ごしています。私のうだつの上がらない話で元気になる人がいればそれで良いですからねー。



具体的なわかりやすい体験をこれから話していきたいと思います。
私は岐阜で生まれ育ち、学会3世です。
母方の明治40年生まれの祖母の入会で今に至ります。

しかし私の母が学会嫌いでしたので、しばらくは私は入会していませんでした。母の悩みが出てきたころ、私が小学校の低学年くらいの頃に父と入会をしました。また、きょうだいはいなく、一人っ子でした。

私が知っている範囲では祖母の時代から悩みの種類は違いますが家庭不和の悩みが常にあった家系でした。父も、自分の親と仲がよくなかったそうで、私は父方の祖父母は全く面識がありません。

母もまた家庭不和でした。
父と私は入会をしたものの、すぐに家庭不和は解決はしませんでした。

私は、家庭不和の中にずっと居ましたので、学会の素晴らしさはまだまだわからなかったものの、唯一信じられるものとして反発をすることなく、会合などはすべて参加していました。

それから中学時代では、関西創価高校を目指していました。しかし母は父を頼ってお金を捻出するしか方法がなかったようで、(普通はそうなんでしょうけど)父はそのような学費は出したくなかったようでした。だから母は、受験はさせてくれたものの、受かっても入学はできないからねと他の学会員がいないときに私に言っていました。

そのころの私の信心の力ではどうにもできずに、親のいわれるがままに過ごしていました。

授業料が一番安い、市立の関商工という学校にいきました。その頃から生活は荒れていきました。教学試験の3級も落とすほどやる気はなくなっていきました。
そのころは母は離婚して再婚していました。私と二人でアパートに暮らしていましたが母はほとんど新しい父のところで過ごしていましたので私は実質一人暮らしをしていたようなものでした。

しかし生活はあれていたものの、何かあると誰かが助言してくれるような環境でもありました。高校も辞めようかなと思った時には、私よりももっと荒れている友人に「高校は卒業しておいた方が良い」
といわれ、何とな~く踏みとどまりました。


その後も、進学をしたかったのですがそれも叶わずにいまして、就職することになりました。

学会活動では、会合自体は女子部の方が連れ出してくれていましたので、出ていましたが、人生に対して何のビジョンも希望もなく過ごしていたように記憶しています。

それから適当に希望を出して受けた就職試験は、当時は○○株式会社という社名でしたが今の○○のことです。
大手なのでだれも受けなく、私だけ受けてきたのですが、早々に合格しました。1996年の入社ですが、当時はバブルが崩壊して数年がたち、いよいよ不景気で就職も厳しいといわれていた時です。学校からも、受かるわけがないといわれていたところでした。


それから3月に卒業しまして、早速入社しましたが、車を自分で買い、毎月貯蓄して借り上げの家賃を払っていきながらの生活で、お給料がもう少し多い会社がいいなと思っていました。また、元々惰性で選んだ就職先でもあり、ちょうど1年ほどでやめることになりました。

特にやりたい職種もありませんでしたが、すぐに、○○グループの中の「○○株式会社」という化粧品会社に就職が決まりました。途中入社になるので最初は時給のお給料でした。
それでも○○の時よりは、給料体制はしっかりしていました。

それから正社員登用試験というのがありまして、それは中々受かることができないと言われている試験でもありました。
その試験も、入社して1年ほどで合格でき、正社員となりました。
在籍年数にかかわらず昇給も毎年ありましたし、ボーナスのランクが4段階ありまして、最低ランクのボーナスで月給の□ヶ月分が年2回、営業成績で振り分けられるのですが最高ランクだと詳しくは忘れてしまいましたがボーナスだけで年間○○万円以上もらえる会社でした。
その会社には8年ほどつとめました。

紆余曲折ではありましたが、不景気のなか誰もが知る大手企業に入社できていたこと、節目のような時に具体的に教えてくれる人がいたことなど、学会員でなければこれほど護られてなかっただろうなというお話でした。

また面白い体験を話していきます!



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